広告止め

2009年06月27日 21:42

です。





以上。笑。

音楽の非連続線、細野晴臣の「彼岸の音」について

2009年02月21日 14:05


talking_hosono
1  細野晴臣『アンビエント・ドライヴァー』に、こんな記述があった。

サウンドということで興味深い体験をしたのは、戦後大ヒットした<りんごの唄>の再録音版を聴いた時だった。これは昭和四〇年代に再録音されたもので、オーケストラの楽器一つ一つがハッキリ聞こえるようなステレオ録音になっている。オリジナル録音とメロディもアレンジも同じなのだが、何かあのグッと来る哀切感がなくなっている。(p237)

私も、SP盤時代の流行歌に興味を持ち始めた頃、何も知らずにステレオ再録音版が収録されているCDを買ってしまい、大いにがっかりしたということがあった。当然のことだが、オリジナル録音とステレオ再録音は、音楽としてまったく別物である。それなのに、流行歌の編集盤CDの中には、収録音源がいつの時代のものか明記しないまま販売しているものが未だにある。

流行歌のステレオ再録音についてはこちらの論文に詳しい。
「戦後日本の『なつメロ』の成立とブームの特質に関する研究」
http://www.natsumero.info/

昭和40年代、TV番組のヒットによって「懐メロブーム」が起きた。
戦前〜昭和20年代の流行歌歌手たちは、それまで、なかば忘れられた存在であったのだが、この時一躍カムバック。往年のヒット曲をこぞってステレオ再録音したということがあったのだ。

そうした中でも「リンゴの唄」はかなり特殊な例である。ほとんどの場合、ステレオ再録音版では新しく編曲し直されているのだが、これはほぼ同じなのだ。オリジナル版ステレオ再録音版。なるほど、これは確かに「ポップソングのメロディはサウンドが変わっただけで生きたり死んだりする」(p237)ということの分かりやすい例である。

2  以前、コレクターの方のサイトで、SP盤時代のサウンドについての興味深い発言を読んだことがある。
現在、SPレコードのオリジナルマスターはレコード会社にもほとんど残されていない。だからCD化するには、コレクターが所蔵しているSPレコードを「盤おこし」して再録音しなくてはならない。「復刻盤」とはそのように制作されたCDのことを言う。その際に、音をどのように調整すればよいのか。
そのコレクターの方の意見は、蓄音機で再生した時に聞こえる音に出来るかぎり近付けるべきだというものだった。SPレコードは、蓄音機で再生した時、もっとも気持ち良く聴こえるようにということを想定して制作されていた。異常に強調された低音も、独特のアレンジも、蓄音機のサウンドによって最適化されたものなのだ。
技術が音楽を規定するというポピュラーミュージックの根本原理は、既にこの時代からあったのである。

そうであるなら、レコードの技術的な前提が大きく変わった昭和30年代、音楽の制作現場は大きな混乱に襲われたのではないだろうか。流行歌の変容は昭和20年代後半から始まり、30年代には一つの時代の終焉を迎える。この頃、流行歌は、ポップス、歌謡曲、演歌へと細分化することによって、その特徴的なスタイルを失ってしまったと言われている。そこに録音技術の変化が決定的な影響を与えていたのではないだろうか。
昭和30年代は、ステレオ録音が商品化され、SPレコードが姿を消していった時代である。つまり、この時代に、流行歌を流行歌たらしめていたサウンドの質感が徹底的に奪われてしまった。同じ演奏をしても、かつてと同じ魅力を伝えなくなってしまった。未知のサウンドを前にして、作編曲家や録音技師たちは試行錯誤を繰り返したことだろう。そうした過程を経て、流行歌は歌謡曲や演歌などへとスタイルを再-最適化していった。
日本の大衆音楽は、この時、いったんリセットされたのである。

3  流行歌に限らず、SP盤時代の音楽には絶滅した恐竜のような面影がある。
地球規模の気候変動によって姿を消した古代生物のように、地球規模の技術変革によってSP盤時代の音楽は絶滅してしまった。失われた音楽は二度と生き返ることはない。同じように演奏しても、かつてと同じように響かせることは出来ないのだから。
歴史の非連続線の彼方にある音楽。細野は、それを「彼岸の音」と言う。

細野は、現代のレコーディング環境の変化に触れて、「『彼岸の音』を再現する―――いや、僕なりにリ・クリエイトすることも、もはや夢ではない」(p238)と結んでいるのだが、これは細野の音楽を知るものには今更過ぎる発言だろう。ロックの波が洗い流してしまった音楽を再発見し現代に甦らせる。これは間違いなく、音楽家細野晴臣が30年来続けてきた仕事の一つだ。

僕は戦後に生を受けた世代に属する。だからこそなおさら自分の知らない、特に隣接する時代の文化を知りたいのだ。これは単なるノスタルジーなどではないと思うし、僕は回顧マニアでもない。
<中略>
そのためには土を掘り返さずとも、ちょっとレコード店へ行って苦労をすれば―――いつも行く新譜のコーナーを通りすぎて、オールディーズや、Vintageのコーナーで時間をかければ―――音楽の遺跡が今でも生きていることが発見できるし、あのなんとも言えない喜びを知ることもできるし、そうなれば後は簡単だ。例えば『ファニー・フェイス』というアルバムに針を落とすと一九二九年のガーシュウィンが弾くピアノにのせて、まだ若いアデルとフレッドのアステア姉弟が歌う「スワンダフル」などが魔法のように甦ってくるはずである。(細野晴臣『地平線の階段』八曜社、1979年、p63)

「彼岸の音」への憧れとは、細野が30年間一貫して持っていた音楽的興味の核心の一つなのだ。だからこそ、彼はゲルニカ(1920年代の芸術音楽と大衆音楽の融合がコンセプト)をデビューさせたし、Pacific231(コンピュータでクロード・ソーンヒル楽団のサウンドを再現しようとした)を自身のレーベルに招いたりもしたのである。

それにしても、細野晴臣はこうしたことをよく言語化して理解している。
細野の音楽に興味を持たない人でも、彼が40年近くサークルの中心人物として活躍し続けてきたということは認めるに違いない。なぜ彼は時代を超えて活躍することが出来たのか。私はここに秘密があると思う。細野は音楽を、技術論を超えたところで徹底して考えた。そうして発見された言葉が、時代や流行の移り変わりを超えて、彼の音楽を導いていったのだ。

知が、言葉が、というより、ロジカルな思考そのものが感覚の深化を促す。
細野晴臣という音楽家には、そんなところがある。

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罫線付きのノートにぐりぐり描いてます

2009年01月27日 01:25


なので、いろいろ汚い・・・。

process_001

twitterのアイコンの元の絵です。
途中途中。

このエントリはあとで消す予定です。

服部良一とその想像力の行方

2008年12月15日 19:34


R Hatter
1  服部良一は戦後の一時期、古巣コロムビアとの関係を維持したまま、ビクターとも契約を交わしていたことがありました。その頃のビクターでの主要な録音を集めたものが2枚組CD『東京の屋根の下 僕の音楽人生 1948〜1954』です。
このCDのライナーノートで、評論家の瀬川昌久氏は、服部をジョージ・ガーシュウィンとデューク・エリントンになぞらえて評価しています。数々のヒット曲を生み出しえたメロディメーカーである同時に、優れたアレンジャー、オーケストレーターでもあった服部を、ガーシュウィンとエリントンの才能を兼ね備えた音楽家として評価しているのです。
なるほど。実際に音を聴いてみれば、納得させられます。
魅力的な旋律を書いた作曲家は他にもいましたが、彼ほど豊かなアレンジメントを楽曲に施した作曲家はいなかった。同じライナーノートで、作曲家の宮川彬良氏も、伴奏にあらわれる旋律の多彩さと内声部のふくよかさを指摘していますが、彼らの言うとおりでしょう。まったく同感です。
ガーシュウィン、エリントンといった固有名詞を用いた表現は他にも見られます。「『チャタヌガ・チュー・チュー』や『素敵なあなた』などのリズム・ソングを想起させ」「ドリス・デイの『Again』や『It's Magic』に比肩する傑作と思う」。また、宮川氏は初期ジャズ・コーラスものの代表作「山寺の和尚さん」を「フォー・フレッシュメンばり」と評しています。すべて、うんうん、と首肯しながら読んでしまいます。
読みながら、彼らの中に服部良一的と言えるような想像力があることに気づかされます。

服部良一はしばしば古賀政男と比較されてきました。古賀が日本的な情緒のあり様を仮構した作曲家であると見なされているのに対し、服部は流行歌をジャズやポピュラーソングとして洗練させた。演歌の古賀とポップスの服部。内と外の対立です。
この内と外という対立概念は、日本の大衆文化において重要な意味を持っていました。
中山晋平や佐々紅華は、服部より20年程前に登場した、流行歌の時代の黎明期を代表する作曲家ですが、彼らは西洋音楽の方法で日本的な音楽を確立することを自らに課していました。その成果が「東京行進曲」「東京音頭」といった流行歌の誕生です。
一方、浅草などの盛り場ではヴォードヴィル・ショーが人気を呼んでいました。舞台で演奏されるジャズ・ソングやミュージカル・ナンバーは、その後、映画出演を通じて全国的なスターとなったヴォードヴィリアンたちによって、次々とレコード化されていきます。昭和初期には他にも、ラテン、ハワイアン、シャンソン、そして、もちろんクラシックと、今私たちが想像するよりもずっと国際色豊かな試みが為されていました。
音楽が持っていた趣味の記憶はあっという間に風化します。だから、想像することしか出来ないのですが、おそらく、大正末期から昭和初期にかけての日本の大衆音楽では、内と外との隔たりがかなりはっきりと感じられていたのではないでしょうか。
服部良一と彼の想像力は、そうした中で育まれていきます。

2  中山や佐々ら大正期に登場した作曲家たちの初期の楽曲は、まず舞台やシート・ミュージックのために書かれたものでした。歌はまず口伝えに流行し、レコードはその流行を追って作られるものだったのです。ところが、服部がデビューした昭和10年頃になると様子は変わってきます。その頃には、レコードとして売られる歌というものが確立されていました。服部は作曲家としてのキャリアをレコーディング・アーティストとしてスタートさせます。彼は初めからレコードのための歌を書く作曲家だったのです。
それゆえ、ヒットが出るか出ないかは死活問題でした。ヒットが出なければ契約は打ち切られます。そうなれば、作曲家として生きていくことは出来ません。
売れる曲を書かなければならない。
そうした中で生まれた服部最初の大ヒット曲が、昭和12年、淡谷のり子の「別れのブルース」です。
この頃、センチメンタルな古賀政男の楽曲が市場を席巻していました。また、盛り場のダンスホールでは「セントルイス・ブルース」などの洋楽ブルース曲が人気を得ていました。服部は、ブルーな情緒を好む日本人のためのブルースを作ろうと決意。まず、コロムビア・ジャズ・バンドのトランペッター森山久の歌で試作品「霧の十字路」を制作し、コロムビア社内で評価を得ると、いよいよ「別れのブルース」の制作に入ります。
「別れのブルース」は作曲家の転機となった曲です。そのためか、様々なエピソードが残されています。中でも、もっとも注目すべきは発売直前のタイトル変更でしょう。「別れのブルース」は、もともと「本牧ブルース」というタイトルで制作された歌でした。

entrance hall
本牧という場所を、昭和初期の東京人はどのようにイメージしていたのでしょう。
本牧は、横浜・関内のさらに南です。関内と本牧の間には小高い山があって、その山上には外国人居留区が置かれていました。現在の山手地区です。このエリアは、それまでは住む人もまばらな太古からの原生林地帯で、出島的発想の明治の日本人たちは、そうした僻地に外国人たちを押し込めたわけです。
本牧は、居留地の外国人たちの町として発展していきます。
山手から本牧へと至る遊歩道が外国人たちによって整備されると、その沿道には彼らに酒、食事、そして女性を提供する店が作られていく。「チャブ屋」と呼ばれる、独自のスタイルを持った私娼はそのようにして誕生しました。
チャブ屋は、ダンスホールを備えた二階建ての洋館という華やかな外観を持ったものでした。昭和3年に現在の山手トンネルが開通し、桜木町〜本牧間に市電が通ると、日本人の遊び人たちも新しい刺激を求めてここにやってくるようになります。
異人たちが住む山の向こうに、夜毎、音楽とネオンがさんざめく花街がある。
本牧のチャブ屋は、昭和のモダンボーイたちのエキゾティシズムを大いに刺激したことでしょう。
トンネルの向こうは、不思議の町でした。そんな映画のコピーさながらのイメージで捉えられていたのかもしれません。

この「本牧」にクレームが付きました。一般の人は、本牧と言われても何のことだか分らないというのがその理由です。
結局、タイトルは「別れのブルース」に変更。歌の世界は一気に具体性を失います。
ところが、それだけではなく、さらに「ブルース」も問題にされました。ブルースと言われても何のことだか分らない。「別れ小唄」とかにした方がいいんじゃないか。しかし、服部は「ブルース」に固執します。「ブルース」という言葉こそ、楽曲に生命を吹き込むマジック・ワードだと直観していたのでしょう。
多くの人が指摘するように、「別れのブルース」にブルースの要素はほとんどありません。サックスを前面に出したアレンジや、硬質なものを感じさせる和声付けは確かに新味だったのでしょう。しかし、歌の旋律自体は中山晋平の時代に先祖返りしたかのような素朴なもので、オーソドックスな流行歌という側面を強く持った曲でした。それでも、服部にとって、この歌は「ブルース」でなければならなかった。何としてでも「ブルース」というタイトルを与えることにこだわった。
これこそ、作曲家 服部良一の作家性ではないでしょうか。

服部は、実際に音を鳴らす前に、まず楽曲そのものをイメージとして掴み取ろうとしました。想像力が向かう先は、「別れのブルース」なら、本牧、ブルースといった単語と一体になった何か、ということになるのでしょう。音楽はそのあとを追っていく。
これは、クリスタルレコード時代の「流線型ジャズ」から、戦後の、数々の「ブギウギ」まで一貫しています。音楽的達成の前に、楽曲をまるごと流線型であり、ジャズであり、ブギウギであると捉えてしまうこと。このような想像力のあり方こそ、服部良一という作曲家の個性であり、彼の不思議なカリスマ性の根拠となったものではないでしょうか。
これは、内と外という対立概念において考えると、よりはっきりと理解できます。
先にも述べたとおり、当時は、ヨナ抜き五音音階的な流行歌とジャズやクラシックそのものとも言える音楽とが並存していた時代でした。内と外との隔たりは、無限の距離を持つものとして考えられていたはずです。
その中で服部は、内(流行歌)に自足するでもなく、外(ジャズ)そのものになりきってしまうのでもなく、あくまで内側に留まりながら外側を志向するという表現を生み出した。これは当時、圧倒的なオリジナリティだったはずです。単なる中途半端ではない。内と外を隔てる無限の隔たりを前にして、彼岸にあるものを想像力で掴み取ろうとした。輸入文化としての日本のポップスが誕生した瞬間だったのかもしれません。

3  昭和20年代は服部良一の全盛期とも言える時代です。服部的な性格を持つ流行歌が、服部以外の手によっても次々と生み出されてヒットしていった。その影響力の強さを顕示した時期ということになるのでしょう。しかし、昭和30年代、ポップスと歌謡曲と演歌が並存する新しい時代に入ると、彼の楽曲は急速に忘れ去られていきます。
当然のことでしょう。いかに服部の楽曲が優れていようとも、輸入文化においては、参照対象は常に外からもたらされるものだからです。例えば、雪村いづみの77年のアルバム『スーパー・ジェネレーション』は、キャラメル・ママとの競演で往年の服部の楽曲を歌うという企画盤でしたが、彼らの興味がSP盤に残された服部の楽曲そのものに無かったことは、その音を聴けば明らかです。新しいアレンジを施された録音に、原曲の面影はまったく残されていません。服部の楽曲は単なる素材に過ぎなかった。彼らの視線は、まったく別の場所に向けられていたのです。
内と外という対立概念が有効であり、かつ、表現が外に眼差しを向けているうちは、服部の楽曲がいかに優れていようとも、それらは懐メロとして消費される以外ありません。しかし、表現が拠って立つところ(此岸)と辿り着こうとするところ(彼岸)が変質し、内と外という対立概念がリアリティを失っていくにつれて、服部は再発見されていくのです。
服部良一が懐メロでも、歴史的遺産でもなく、SP盤に残された音そのものの魅力において再発見されたのは、おそらく、ここ最近(といっても、実際は、20年ぐらいかけて次第に、といったところかもしれませんが)のことでしょう。『服部良一 1934-1954 未復刻傑作選集』のような一種のレア音源集の発売などは、そうした再発見以後の服部良一がどのように受け入れられているのかを物語るものです。

内と外という対立概念がリアリティを失ったがゆえ、それまで省みられることのなかった表現が再発見された。
それはよいのです。では、内側から外側を志向する想像力そのものは、今どのようになっているのでしょう。
服部良一的な想像力の行方という問題です。

voyage a tokyo
表現の此岸と彼岸が、単純に内と外に対応していた素朴な時代は、はるか以前に終わっています。
その後に訪れたのは、彼方にあるものが虚構化されてしまったという時代でした。
ピチカート・ファイヴの小西康陽は、この時代を象徴する音楽家でしょう。
彼は、たえず彼方にあるものへの憧れを吐露し続けた。しかし、それは過去のレコードや映画の中に幻のように立ち現われる何かでしかなく、そのレコードや映画が作られた現実とはほとんど関わりのないものでした。(だから、渋谷系的なヌーヴェル・ヴァーグ受容を、シネフィル的に批判するというのは見当を外しているのです。)
オタク的ユートピアへのエキゾティシズム。彼らの表現はそのようなものだったのでしょう。
しかし、90年代後半から、エキゾティシズムの魔法の効力は次第に失われていきます。
彼らの最末期のシングル「東京の合唱」の歌詞には、服部良一の歌のタイトルが織り込まれていました。小西康陽は、ユウ・ザ・ロックにラップを依頼する際、こんな感じのものをと「東京の屋根の下」の歌詞をFAXで送ったそうです。私は、なるほどなあと大いに納得しました。
当時のピチカートは、悲愴な退却戦を強いられているような印象がありました。魔法が有効に機能する領域を必死に探しているような、そんな雰囲気です。口の悪い人たちは、それを「ネタ切れ」と言って嘲笑していました。服部良一の流行歌の世界は、そうした中で発見されたのです。
服部良一がエキゾティシズムの対象として再発見されるということは、服部良一的な想像力の復権などではなく、もはやそれが過去のものになりつつあるということを物語っているのではないでしょうか。内と外の消失という以上に、表現における彼岸というものが見えにくくなっている。それ以上に、彼岸を意識するということ自体がリアリティを失っている。

ピチカート・ファイヴは、その後、昭和30年代の日本映画の世界へと転がり込み、ジャパニーズ・オリエンタリズムそのものを演じきることで、自らの活動に終止符を打ちます。
もはや、どこにも逃げ場は無い。そう宣言するかのように、信藤三雄は解散直後にリリースされたシングル・コレクションのジャケットに、コンビニエンス・ストアの写真を使いました。これはデザインが批評になった稀有の例でしょう。
もはや彼方などどこにもない。どこを向いても見慣れたコンビニが目に入ってくる。あらゆるものが既視感で覆われた世界。
しかし、そうした世界においても、表現は生き残り続けます。そもそも、彼方への眼差しなど無くても表現は可能だからです。
例えば、ニコニコ動画的クリエイティブに、そうしたものはまったく必要ありません。
それから、私小説的、演歌的な自己開陳パフォーマンスを洗練させるというのも一つの方法でしょう。
そうした表現の訴求力は、これからもどんどん強くなっていくでしょうし、私たちも、ますますそうしたものに夢中になっていくはずです。もはや、彼方にあるものへの憧れなど、単にうざったいだけのもの、一人で勝手に妄想してれば?と言われて終了してしまうものなのかもしれません。今はそうした流れの中にあります。
ただ、そうした状況が全面化した世界、表現というものがコミュニケーションとセンス競争の言い換えになってしまった世界が、はたして住み心地の良い世界なのかどうか。そうした疑問は残るのですが。



pioneers of japanese pops
【DISC GUIDE】服部良一の主要な楽曲は、コロンビアから発売された3枚組CD『僕の音楽人生』にほぼ網羅されています。「東京の屋根の下」「銀座カンカン娘」など、一部ビクターの音源も使用しており、SP盤時代の彼の楽曲の魅力に手軽に触れることができる素晴らしい企画盤になっています。89年に発売され、06年、価格を下げて再発売されました。
初めての方には、こちらをお薦めします。(画像クリックで、Amazonへ飛びます。)
それでも、藤山一郎「銀座セレナーデ」など、ヒット曲、名曲でありながらも、各種オムニバス盤からは漏れてしまっている楽曲もありまして、そうしたものは歌手別に編まれたCDを購入しなければなりません。でも、それで良いのです。SP盤時代の流行歌の驚くべき豊穣さは、何も服部良一に限ったものではありませんから!


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