2008年11月21日 02:43

中学校の音楽鑑賞の授業を思い出してほしい。
ベートーヴェンの交響曲などを聴かされる。
そのとき、一緒に「ソナタ形式」についても教えられたはずだ。
最初に序奏がある。次に第一主題と第二主題からなる提示部があって、主題の自由な変形が試みられる展開部があって、その次の再現部で改めて主題が繰り返されたあと、コーダで全体が締めくくられる。曲は形式通りに変化していく。そのことに注意しながら聴きなさいと教えられたはずである。
音楽鑑賞は、クラシックの名曲を単に知識として詰め込むことを目的としているわけではない。ベートーヴェンの交響曲なら、ソナタ形式を理解させて聴かせることで、クラシック音楽の「聴き方」を身に付けさせようとしているのだ。
クラシック音楽は、聴き手にその線的な理解を要求する。
教科書の名曲鑑賞ページでは、『月の光』でも、『モルダウ』でも、『小フーガ』でも、いずれの場合でも、曲がどのように展開するかということが解説されている。教科書は、その変化の流れをひとつひとつ把握しながら聴きなさいと言っているのである。最初から終わりまで通して、注意深く聴かなければならない。聴きながら反芻して、頭の中で再構成していかなければならない。クラシック音楽を聴く。聴いて作品を理解するとは、そのようなことを言うのである。
しかし、そこでは最も重要なことが教えられていないと、私は思う。
ベートーヴェンの交響曲などを聴かされる。
そのとき、一緒に「ソナタ形式」についても教えられたはずだ。
最初に序奏がある。次に第一主題と第二主題からなる提示部があって、主題の自由な変形が試みられる展開部があって、その次の再現部で改めて主題が繰り返されたあと、コーダで全体が締めくくられる。曲は形式通りに変化していく。そのことに注意しながら聴きなさいと教えられたはずである。
音楽鑑賞は、クラシックの名曲を単に知識として詰め込むことを目的としているわけではない。ベートーヴェンの交響曲なら、ソナタ形式を理解させて聴かせることで、クラシック音楽の「聴き方」を身に付けさせようとしているのだ。
クラシック音楽は、聴き手にその線的な理解を要求する。
教科書の名曲鑑賞ページでは、『月の光』でも、『モルダウ』でも、『小フーガ』でも、いずれの場合でも、曲がどのように展開するかということが解説されている。教科書は、その変化の流れをひとつひとつ把握しながら聴きなさいと言っているのである。最初から終わりまで通して、注意深く聴かなければならない。聴きながら反芻して、頭の中で再構成していかなければならない。クラシック音楽を聴く。聴いて作品を理解するとは、そのようなことを言うのである。
しかし、そこでは最も重要なことが教えられていないと、私は思う。
それは、そうしたクラシック的な「聴き方」が、非常に特殊な「聴き方」だということである。
授業を受けている中学生にとって(そして、私たちにとっても)、もっとも身近な音楽は何かというと、それはロックやポップス、つまり、ポピュラーミュージックである。
ポピュラーミュージックでは、必ずしもクラシック的な、音楽の線的理解を必要としない。
例えば、BGM的に聞き流していたとしても、その魅力に触れえる場合が多くある。これは、ポピュラーミュージックがクラシック音楽と比べて単純な音楽だからではない。聴くということにおいて重要とされるものが、クラシックの場合とは異なるからである。
ポピュラーミュージックでは、楽曲の部分部分にあらわれる複雑なニュアンスを感受することが求められる。それは、旋律やハーモニーに表れる情感であったり、グルーヴと呼ばれるリズムによるノリであったり、サウンドの質感やそれら全てによって表現される楽曲のイメージであったりとさまざまな形を取るが、そうしたものを感覚的に把握する能力が聴き手に求められるのだ。
何度も聴いていたのに気付いていなかった特徴的な何かに、ある日ふっと気付く。その楽曲のイメージが、突然、鮮明に浮かび上がってくる。聴き手が音楽を作品として「理解」したと感じるのは、そうした瞬間だろう。私たちは、そのような体験を日々繰り返している。単純に、これを未熟な聴き方だと退けることは現実的ではない。
なぜ現実的ではないか。
それは、私たちの日常にステレオ再生装置があまねく普及してしまったからである。
ポピュラーミュージックの歴史は既に100年を数えようとしている。そこではあらゆる試みが為され、その成果は巨大な文化遺産として蓄積されている。確かに、こうしたポピュラーミュージックそのものの価値ということも無視はできない。しかし、それは本質的な理由ではない。
私たちは、音楽を聴くといったとき、どのようなシチュエーションを思い浮かべるか。それは部屋でCDをかける、PCでmp3を再生するということになるはずである。もっとも日常的な音楽聴取が、そのような形態になってしまったことが決定的なのだ。
あえて言うのだが、部屋で、CDで、クラシック音楽を聴くということには、どこか「かったるい」ものがある。
コンサートホールで聴くなら話は別だ。聴き手は座席に縛り付けられ、何か他の事をしながら音楽を聴くことは基本的に許されていない。環境的にも心理的にも、音楽に集中せよという規律の下に聴き手は置かれる。もちろん、歴史的に見れば、コンサートホールがそのような場所になったのは19世紀のある時期からであり、元来クラシック音楽はもっと軽薄に受容されてきた。しかし、クラシック音楽はそのような受容のあり方を否定して歴史を作ってきたのである。

クラシック音楽が聴き継がれるためには、この「聴き方」の特殊性を広く理解させなければならない。
吉松隆のように、「聴衆を置き去りにした現代音楽」を批判することには大して意味が無いのではないか。そもそも、そうした「現代音楽」はクラシック音楽業界においても既に力を無くしているだろう。彼が立ち返れといっている19世紀の音楽自体がローカルなものになっているということを、まず広く認知させなければならない。
これは実感をもって思うことだ。渋谷系とソフトロックを愛する、大のポップスファンであった私は、この「聴き方」の特殊性を理解することで、はじめて自分の生活の中にクラシック音楽を位置づけることが出来たからである。
さて、なぜ突然このようなことを書いたかというと、表現の速度ということを考えさせられたからだ。ニコニコ動画に音声がアップされている、早稲田文学十時間連続シンポジウムで、それは問題にされていた。
吉松隆のように、「聴衆を置き去りにした現代音楽」を批判することには大して意味が無いのではないか。そもそも、そうした「現代音楽」はクラシック音楽業界においても既に力を無くしているだろう。彼が立ち返れといっている19世紀の音楽自体がローカルなものになっているということを、まず広く認知させなければならない。
これは実感をもって思うことだ。渋谷系とソフトロックを愛する、大のポップスファンであった私は、この「聴き方」の特殊性を理解することで、はじめて自分の生活の中にクラシック音楽を位置づけることが出来たからである。
さて、なぜ突然このようなことを書いたかというと、表現の速度ということを考えさせられたからだ。ニコニコ動画に音声がアップされている、早稲田文学十時間連続シンポジウムで、それは問題にされていた。
文芸誌に書かれる文章は、ゆっくり読まれることを前提としている。書き手も、読者にゆっくり読ませるために様々な仕掛けを施したり、あるいは描写に凝ったりする。しかし、そもそもそれが読まれないという場合を想定していないのではないか。
コミュニケーションの速度は増すばかりである。
例えば、ブログに文芸誌と同じような文章を書くということはない。書いても読まれない。
文芸誌の外からそうした文章を見ると、なぜ書き手はこんなにも親切な読者を当てにしているのだろうと思うのではないだろうか。
こうした議論を聞いて、私はクラシック音楽が抱えている同じような困難を連想した。
クラシック音楽は伝達、コミュニケーションのレベルで圧倒的に遅い。クラシック音楽を流し聴きすることも出来なくはないが、しかし、そのような聴き方では何か決定的なものを聴き逃してしまう。やはり、クラシック音楽は、ゆっくりと集中して聴くようにプログラムされているのだ。
それでは、ポピュラーミュージックは速い、と言えるのだろうか。
言えるかもしれないし、言えないかもしれない。そもそも、速度の隠喩は適当ではないのかもしれない。
ポピュラーミュージックの伝達のあり方には、単純に速い/遅いと二分できないものがある。
ポピュラーミュージックは、連続して何度も繰り返し聴かれることを前提に作られている。
無限のバリエーションであらわれるポピュラーミュージック作品を、聴き手はすぐに理解できるわけではない。楽曲の複雑なニュアンスを感受するために、聴き手は何度も何度も同じ曲を聴く。
そのため、一曲の長さは不必要に長くあってはならず、また、繰り返し再生ボタンを押させるために、何らかの分りやすい要素が曲の中に音楽的なフックとして埋め込まれる。それは、聴き馴染んだ旋律やリズム、クリシェ的な作曲技法、その楽曲が属するジャンルやモードを示唆する何かであったりするだろう。
聴き手は、コンサートホールの聴衆の数分の一程度の散漫な集中力でもって、繰り返し繰り返し聴き、聴かされ、やがて、そこに込められた複雑な何かを感受させられていくのである。
ポピュラーミュージックとは、情報に繰り返しアクセスさせるようにプログラムされた音楽である。
そして、その一点でもって、録音された音楽を自宅のステレオで聴くという聴取体験が一般化した1950年代以降、世界の音楽文化の中心を占めるようになったのだ。
これは驚くべきことではないだろうか。単に、ポピュラーミュージックがクラシック音楽を下し、世界の音楽市場の覇権を握ったという話ではない。ポピュラーミュージックは、レコード盤に組み込まれたコミュニケーションモデルを世界中に行き渡らせることで、20世紀の聴衆の精神世界を完全に征服してしまったのである。
クラシック音楽が19世紀に持っていた(正確に言えば、夢想した)普遍性、純粋性は永遠に失われてしまった。もはや、クラシック音楽を、ポップスによって形成された情感やイメージのフィルターを通さずに聴くことはできない。クラシック音楽は民族音楽的な趣味性を帯びたものとしてしか響かなくなったのである。

ポップスはポップスなりに遅い。
しかし、その遅さを受け手に意識させないようにデザインされている。
速度の隠喩を用いるなら、そのようになるだろう。
ところで、私は本におけるビジュアル表現について考えている。
印刷物におけるビジュアル要素はイラストや写真ばかりではない。フォントの種類、レイアウトのあり方、印刷に用いる紙の種類といった、あらゆるものが視覚表現の要素となりうる。これらを、ポップス的な伝達に向けて徹底してデザインしていけば、どのようなものが生まれるだろうか。
しかし、その遅さを受け手に意識させないようにデザインされている。
速度の隠喩を用いるなら、そのようになるだろう。
ところで、私は本におけるビジュアル表現について考えている。
印刷物におけるビジュアル要素はイラストや写真ばかりではない。フォントの種類、レイアウトのあり方、印刷に用いる紙の種類といった、あらゆるものが視覚表現の要素となりうる。これらを、ポップス的な伝達に向けて徹底してデザインしていけば、どのようなものが生まれるだろうか。
おそらく、それは一般にはビジュアルブックと呼ばれるものになるだろう。しかし、旧来のようなグラフ誌的なビジュアルブックにはならないのではないか。似て非なるもの、根本のところでまったく性質を異にする、21世紀のビジュアルブックになるのではないだろうか。
ライトノベルを例に取ると分りやすい。
常々疑問に思ってきたのだが、ライトノベルに挿絵は必要なのだろうか。
ここで言う挿絵とは、物語の場面を図解したイラストである。
それは読者から求められている種類のイラストではないのではないか。
ライトノベルの読者は、まずなによりもキャラクターを見たいのだと思う。少なくとも私はそうである。キャラクターが魅力的に描かれているイラストを見たい。そうであれば、必ずしも物語の場面や筋を絵解きしたものである必要はない。たとえ一枚のイラストとして完成されていなくても、キャラクターの魅力が感じられるものであれば、それでいい。
さらに言えば、イラストと文章の仕切りがはっきり分かれている必要も無い。
文庫本である必要も無い。というか、もっと大判の本であったほうがいい。
ライトノベルは漫画でも小説でもない、ある種の絵物語本になった方が面白い。
そこでは、文字情報を含むあらゆる情報が視覚表現になり、イラストだけでなくデザイン的な表現もまた、その本の意味を伝えるものとなる。ビジュアル表現は、単なる視覚的なスペクタクルでは、もはやない。21世紀のビジュアルブックとは、そのようなものである。
『オタクとデザイン別冊2 東京』もまた、そうした本になるべきだった。
しかし、なってはいない。作り手(つまり、私)の編集意識が未熟だったからだろう。
文字情報は文字情報でしかなく、それを頭からずっと読むしかない、クラシック的な「かったるさ」が残った本になっていることは否定しがたい。(具体的な改善のアイデアはいくつも思い浮かぶが、それはここには書かない。どのような形になるか分からないが、また近いうちに向き合うことになるかもしれない。)
目的は、読者に何度も何度も同じページを開かせることである。
たとえ散漫な受容(拾い読み)であっても、繰り返しの中から、読者は記述された文字情報の全体を再構成していくかもしれない。また、グラフィカルに構成された誌面そのものに、ポピュラーミュージックの聴き手が感受するような複雑なニュアンスを見出していくかもしれない。

ポップス的伝達と言うように、私は音楽聴取のあり方とのアナロジーで語ってきた。
しかし、情報への繰り返しのアクセスを促すということはインターネットも同様ではないだろうか。
インターネットの世界ではアクセス数が重視される。それによって得られるユーザーの情報が価値を生み、また、ネットを通じたリアルな商取引が、そうした中から確率的に行われるからである。だから、ネットのサイトは更新の頻度を上げることに力を割く。具体的に言うと、情報を細切れにアップする。
しかし、ポップス的伝達は、まったく同じ情報に繰り返しアクセスさせるのだ。
そのため、分りやすい音楽的なフックを仕掛ける。聴き手をアディクトさようとする。
それは、単にアクセスさせることに意味があるのではなく、散漫な聴取では伝わらないもの、遅くしか伝えられないものを、聴き手にストレスをかけずに伝えるためである。ポップス的伝達は遅い表現が生き残っていくための戦略でもある。しかし、情報への繰り返しのアクセスを促すということはインターネットも同様ではないだろうか。
インターネットの世界ではアクセス数が重視される。それによって得られるユーザーの情報が価値を生み、また、ネットを通じたリアルな商取引が、そうした中から確率的に行われるからである。だから、ネットのサイトは更新の頻度を上げることに力を割く。具体的に言うと、情報を細切れにアップする。
しかし、ポップス的伝達は、まったく同じ情報に繰り返しアクセスさせるのだ。
そのため、分りやすい音楽的なフックを仕掛ける。聴き手をアディクトさようとする。
さて、ポピュラーミュージックのあり様をさらに仔細にながめれば、こうした議論の枠組みでは十分に語ることが出来ないことを理解するだろう。例えば、ここで音楽的なフックとか、アディクトさせるものと言われているものと、複雑なニュアンスとか、遅くしか伝えられないもと言われているものは、それぞれはっきり区別できるものではない。後者は、前者へと常にスライドしていく。また、前者が全ての受け手にとって自明なものではない。
もし本当の意味でポピュラーミュージックの分析に興味があるのであれば、まったく別の枠組みで語るべきだ。先行する研究はいくつかある。ポピュラーミュージックの聴取論は、現代の文化を語るうえで決して無視できないものだ。
この文章は分析のためのものではない。創作の手引きを、単純な概念として提出することを目的にしている。したがって、あとは実践において、これをどのように思考するかである。


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