ビーチボーイズをめぐる感受性の変化について

2009年09月12日 08:09


ビーチボーイズといえば「サーフィンUSA」、ではない。
渋谷系華やかなりし1990年代に音楽的自意識を獲得した私にとって、ビーチボーイズは初めからサーフィン&ホットロッド・ブームを代表するオールディーズ・グループではなかった。それどころか、ビーチボーイズのファースト・インプレッションは、彼ら自身の楽曲によって与えられたものでもなかった。「God Only Knows」の旋律を引用した、フリッパーズ・ギターの「ドルフィン・ソング」によって、彼らの最初のイメージが決定付けられたのである。

私は最近まで、このことを口に出すのは、あまり良くないことだと思っていた。発言の対象を特定の「世代」や趣味の共同体に閉じ込めてしまい、そこに属さない人たちとのコミュニケーションを切断してしまう危うさを持った発言だからだ。
しかし、それと同時に、1990年代以降のビーチボーイズのイメージの変化について、上手に説明できないもどかしさも感じていた。90年代中盤以降のビーチボーイズ再評価は、単に新しいファンの獲得という以上に、彼らを、音楽についてのある種の美学的態度を表すアイコンのような存在にしてしまった印象があった。このあたりを上手に説明することが出来ない。
ビーチボーイズの初期のサマーソングが名曲の宝庫であることは疑い得ない。
それでも、彼らのイメージが、『Pet Sounds』や、『Smile』収録予定だった楽曲たち、あるいは緑の室内楽アルバム『Friends』やソフトロック・アルバムの傑作『Sunflower』によって、より支配的に描かれるとはどういうことなのだろうか。

これは、彼らの音楽に対する、受け手の感受性の変化を物語っているのではないか。
つまり、ビーチボーイズの楽曲の価値の中心をどのような部分に見出すのか、その評価が変わった。
そうであるのなら、「ドルフィン・ソング」においてビーチボーイズを語ることにも、幾許かの妥当性が与えられるはずだ。おそらく、暗闇の中から静かに聴こえてくる「God Only Knows」のフレンチホルンの旋律が湛えている感受性こそ、再評価以降のビーチボーイズの音楽の中心的な価値とされたものである。そうでなければ、『Love You』のようなアルバムの再評価もありえない。ひときわ奇妙な『Wild Honey』にも同じものが流れている。
『ヘッド博士』におけるフリッパーズは、それらを直観して取り出し、再構成したのだ。

1960年代、ポップミュージックの創造性がロックという形で爆発した時代、ビーチボーイズは、ポップミュージックが持つ「甘さ」を、「深さ」や「広がり」といった感受性と結びつけようとした。イマジネイションの果てしない海の中で響かせようとした。そのような音楽的感受性において、ポップミュージックの理想形を実現しようと試みた。
90年代以降、このような美学的な価値を担うアイコンという立場がビーチボーイズに、あるいは、ブライアン・ウィルソンに与えられたのだ。ビーチボーイズはビートルズがそうであるように、しかし、ビートルズとは異なる意味において、ポップミュージックの歴史/美学を代表するアーティストとなったのである。




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